ご挨拶
家づくりを通して家族の笑顔と幸せをつくる。
深山家の3番目の子で、3男として誕生。
1964.8.7生
富山市にある産院にて誕生。
長男は生まれた時から体が弱く急性肺炎で生後1年で亡くなりました。
父親は化学工場の三交代制の会社に定年まで働きながら私らを母親と2人で育ててくれました。
子どもの頃の私にとっては、父親の仕事が三交代制なので夜11時頃や朝の3時頃に仕事に行く姿を見ながら育ちました。
父親と一緒にご飯を食べれるのは週に1回くらいでした。
私が小学4年生の時に父が近所の大工さんに家の台所を増改築してもらいました。
新しくなった台所で初めて家族全員で夕食を食べた時、みんなが笑顔で幸せそうな顔をしていたのを思い出します。
頑固で怒りっぽい父も満面の笑みでした。
その時、私は将来、大工さんのような人を幸せにする仕事をしたいな!と子供ながらに思いました。
高校生になった私は春、夏の休みをこの大工さんのところでアルバイトをさせて頂きました。
お客様の家が出来上がっていくプロセスを見ているうちに感動が湧き上がってきました。
いよいよ家が出来上がって、お客様の笑顔と【ありがとう】の言葉を聞いた時は二重の感動がありました。
そして私が高校を卒業して、大工さんのところに弟子入りしようと思っていたさなか、私が高校3年生の冬に大工さんが体を壊し病院に入院することになりました。
肝臓と腎臓が悪く入院は長引きました。
そして半年後、大工さんは仕事復帰が難しいと判断され工務店は廃業する事になりました。
社会人になった私は鉄工所勤務や営業職に就いたりと職を転々とし長続きしない日々を3年ほど送っていました。
どうしても職人の仕事がしたいと思い私の母親がパートで勤めていた型枠大工の工務店を紹介してもらいました。
21歳になった私は、建築の型枠大工として主に学校や病院、マンションといった新築工事の職人として出発しました。
毎日大変な事が色々ある中、建物が完成した時の喜びは『一生懸命やって良かったな』と感動に繋がりました。
そうして5年の月日が経ってようやく大工仕事も現場を任せてもらえるになって来たさなか工務店の社長が脳梗塞で倒れられ脳と身体に障害が残り工務店の経営が困難な状態になりました。
やむを得ず廃業の決断をしていた社長が私に『深山君、今の現場が終わったら僕は会社をたたむけれど、その後も仕事が決まっているのであなたが人を集めてやってくれないか?』と話され私は、あまりにも急な事だったので不安と、どうしたらいいのか?という気持ちでしたが、今まで社長に仕事を教えてもらい、ここまで経験させてもらった事に感謝し起業を決意しました。
何とか4人の職人を集めてやり始めたものの、仕事には請負金額と工期が決まっているので、3年程は赤字続きで工期も間に合わせるのに毎日睡眠時間は2~3程度でぶっ倒れそうになるまで働きました。
借金もしていたので辞めるわけにもいかず歯を食いしばる日々が続きました。
4年目くらいから採算が取れるようになり、経営が成り立つようになりました。
ようやく受注もそれなりに安定してきた中、2008年のリーマンショックで強烈な景気後退に見舞われ受注の激減に追いやられました。
『このままでは近い将来、倒産してしまうのでは?』と、そんな危機感がありました。
何か新しい事に挑戦しなくては!と思っていた時...
親戚のおばちゃんが、お盆の墓参りに私の実家に来ていて、たわいもない世間話の中『健二、あんたの会社は家は建てれないの?』と言ってきました。
私はその瞬間、高校生の時、大工のアルバイトをしていた頃を思い出しました。
家が完成した時あのお客様の笑顔と【ありがとう】の言葉が強烈に蘇ってきました。
建築に関わるものとして
【笑顔と幸せを実感できる家づくり】を提供することが私の使命ではないか。
ここから戸建て住宅への挑戦が始まりました。
代表 深山 健二
アーキッシュ永 代表 深山健二